「ラディカルなコミュニティ・アートを、東京から世界へ」
熊倉純子(東京芸術大学音楽環境創造科准教授)
■ 東京アートポイント計画のトークイベント--臼井隆志と岸井大輔
7月18日、「東京アートポイント計画」が神田で始動した。神田と馬喰町、浅草橋、日本橋を結ぶエリアは、この日1 day イベントを共催したCentral East Tokyoの活動によって、創造界隈への変貌が感じられる場所だ。
トークイベントに招かれ雑談をしたのだが、私の戯言の前に短い報告をした二人の話が小気味良かった。最初の報告は大学3年生の臼井隆志君がプログラム・ディレクターを務める「アーティスト・イン・児童館」。彼の地元である練馬区東大泉の児童館でのワークショップ活動だが、アーティストの西尾美也は、衣服を使って自由に作業をし続けるというフレームを設定しただけで児童館の中にいるわけではない。それはアーティスト・イン・レジデンスという20世紀的手法への逆説的なアプローチであるだけでなく、ワークショップにありがちな予定調和的な作業の段取りをも排除し、少しだけ常識の枠組みを逸脱してゆく遊びのようなものだと言えるだろう。これを長期的に続けることで、普段は傷つけてはいけないとされている衣服を切り刻むといったような行為が表現、あるいは遊びとして成立することを覚え、与えられたものを享受するだけでなく、自らの手で活動をつくり出していくラディカルな児童を増やしている。 臼井君たち若いグループは、「ミーティングは公園とかを散歩をしながら、途中で出会った子どもやお母さんたちにもざっくばらんに参加してもらいながらやるのがモットー」だという。ワークショップで育った世代だけに、「芸術を広めたい」などという内輪目線ではなく、コミュニティ不在の日常に暮らす郊外の子どもたちの世界観とじっくり対峙してゆく構えが頼もしい。
「アーティスト・イン・児童館」ウェブサイト はこちら
内輪といえば、「内輪の公共化」を宣言したのが、次の報告者の岸井大輔氏。東京アートポイント計画でこれから100日間、向島エリアに拠点を構える劇作家の岸井氏は、お年寄りが多いからという理由で選んだ京島のキラキラ橘商店街に、「ロビー」を作る計画を語る。コミュニケーション誘発型の表現やアートプロジェクトは、とかく「内輪っぽい空気」と批判されることが多いが、彼は、コミュニケーションしようと語り合う人たちの輪が内側を向いているのは至極当然と喝破したうえで、しかしその輪は必ずしも閉じているとは限らないことを指摘。いくつかの内輪が生まれ、ふと迷い込んだ人たちを「中に入ってもいいよ」と誘う公共の場が「ロビー」なのだろう。彼はこの100日間で、たった3人の観客とともに、観客が好きだったり嫌いだったりする都内各所を巡りつつシアトリカルな表現をおこなう演劇プロジェクトも展開する。積み重ねられてゆくマイクロな演劇が観客の妄想をどう表出させるのか、思わず期待が膨らんでしまった。
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■「おやじカフェ」
素人衆の妄想の炸裂で思い出されるのが、3月にF/T(フェスティバル/トーキョー)で開設された「おやじカフェ」である。振付家・伊藤キムのプロデュースで、池袋ウェストゲートパークに登場したテントに普通(じゃない人もいたけど)のおやじ達を公募で集めて店員としたこのカフェは、「劇場という非日常の場でも、普通の喫茶店という日常の場でもない、その間のあいまいな領域に存在する」(会期中の伊藤キムのトークより)という類のもの。5週間のF/T会期中の週末営業だったが、はじめのうちは時折流れるいかにもおやじが好きそうなレトロな流行歌に振りつけられた踊りが中心だったものの、会期終了の頃には、店員のおやじ達はほとんど間断なく蠱惑的な動きで喫茶サービスをおこなっていた。時には観客に一対一でささやかなちょっかいを出すラテン気質を垣間見せ、時には店員どうしで見せるでもなく勝手に群れあいながらストイックに蠢くおやじの身体は、もはやまったくショー的なものではない。はにかみながらも日々洗練されてゆく即興的所作は、演劇作品のような作り込まれたものではなく、自然に流れるちょっとした妄想なのだから。
フツーの人たちの妄想が漏れ出して充満したテントの中は、言葉も意図も介在しない瞬間的交流をそこここに創り出していた。カフェの中に点在する客たちの内輪の語らいやら憩いやらをかき混ぜるおやじたちの不思議な所作は、テントの透明な壁を通して広場の通行人の妄想を触発し、飛び入り参加のおやじ店員を呼び込む結果にもなった。恐るべし、フツーのひとびと。
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■ イギリスのコミュニティ・アート
こういう限界芸術的ともいえる根源的なパワーをもっと世界の諸国のかたがたにも味わっていただけないものかと思案させたのが、「おやじカフェ」の会期中に訪れたイギリスでの経験である。英国はコミュニティ・アートのメッカ。公的芸術支援機関であるアーツ・カウンシルがさまざまなサポート・ネットワークを張り巡らせ、常にきちんと政策へとフィードバックをおこないつつコミュニティ・アートを振興している。アーツ・カウンシルを核として、さまざまな分野の専門家たちが創意に満ちた活動を多様な社会階層にシステマティックに提供する仕組みは、芸術振興というフレームから見ても、また芸術と社会変革という観点からも、日本よりはるかにラディカルなものだ。
特に、教育改革との連動においてはかなり思い切った政策を打ち出し、一つの小学校で20や30もの言語が話されるような移民が多い地域を中心に、文化活動で子どもたちのクリエイティブな能力を養う大規模な施策を始めている。ロンドン東部のオリンピック会場予定地の周辺は移民の多いエリアだが、さまざまなNPOがアートを通じて子どもたちの社会参画プログラムを展開し、肌の色が違っても、家で英語を話さなくても、キリスト教徒でなくても、英国社会の一員でありうるという帰属意識を醸成しようとしているように見受けられた。
また、Social inclusion(社会包摂)的な活動も盛んで、例えば刑務所や少年院を出た若者たちをダンスで更生させるDance UnitedというNPOのプログラムは、再犯率の低下という実質的な成果を上げている。あるいは、Streetwise OperaというNPOは、ホームレスの人びとを対象に全国でワークショップを展開し、毎年かなり高尚な芸術作品を制作している(2009年8月末に主宰者とともに作品も来日予定)。
「ストリートワイズ・オペラ・プロジェクト」来日情報の紹介ページはこちら
ここで気がかりなのが、この「高尚な芸術作品」という点である。イギリスのコミュニティ・アートは、社会的規範から疎外された人びとを救うために、規範を破壊する現代芸術的な手法ではなく規範を前提とする近代芸術的な手法を用いることが多い。その効果は明白で、学ぶべき点が多いにあると痛感したのだが、ダンスも音楽も劇場やコンサートホールで公演したり美術館で展示されたりしても遜色のないような「作品づくり」を目指す傾向にあるようで、人びとの妄想は作品を作り上げる構築性のために枠にはめられ、剪定されていく。現代芸術的な表現の観点からはやや残念な気がするが、イギリスの専門家たちは、コミュニティ・アートの社会的/政策的評価を高めるためにも必要なことだと明言する。舞台にかけられた作品は、私の眼にはそれほどラディカルな表現には見えなかったが、それは、それを支えるラディカルな社会インフラの賜物なのである。
なにやら複雑な思いにかられて帰国して、「おやじカフェ」で癒されつつ、こんな日本はただ牧歌的なだけなのかと悩みながらも、大阪の西成地区でホームレスのおじちゃんたちと表現の場を作ろうと奮闘している詩人の上田假奈代さんの活動に思いを馳せる。彼女のように、人びとの人生に寄り添いながら限界芸術的な可能性を追求する手法は、イギリスから見れば単に後進的なのか、それとも日本的な美学のすぐれた発露なのか----。
「東京アートポイント計画」が、これから市井の人びとに働きかけるマイクロな表現活動を続々と展開してくれることで、多くの表現者や企画者たちが多様な手法を試みることが期待される。柔らかな交流はわれわれの美的妄想をどのように織ってゆくのか。どのようにカタチになるのか、あるいはカタチになることを避けてゆくのか。イギリスのみならず、世界の人びとが東京を訪れて、眠っていた妄想を触発されることを夢見つつ、今後の展開に注目していきたい。