「湿度と昆虫たちに包まれて、アート・プロジェクトとは?」
杉田 敦(美術批評家)
越後妻有・浦田地区にある「批評家の海岸」会場の古民家
いま、僕は水の中にいる。ザーザーと流れる水の中にいる。せっかく準備した映像の、ハンス・ウルリッヒ・オブリストのせっかちなしゃべり声も、カナル・グランデ脇の会場で、はにかみながら歌ってくれたアイスランドのアーティスト、ラグナール・キャルタッソンのしわがれ声も、うつむきながら休刊しているアート情報誌『etc,』について、慎重に語ってくれた言水ヘリオのボソボソ声も、すっかりかき消されてしまっている。聞こえてくるのは、終わることなく続く乱暴な雨音ばかりで、かろうじてそれを遮るのは、この荒天のどこに身を潜めているのか、縫うように漏れ至ってくる小鳥のさえずりばかりだ。
4回目を迎えた<越後妻有アートトリエンナーレ>*1。これまでも何度となく足を運んだが、参加したことはなかった。出展していた作家とのつながりで、トリエンナーレの狭間の、夏や冬のオフ・トリエンナーレのイヴェントに参加したことはあったが、今回は正式に参加することになった。「批評家の海岸」*2。どのような展覧会でも、常に自身をその外部に置きたがる、つまりその場に不在であろうとする批評家。そして、自然豊かな越後妻有にあって、それだけは決して存在することのない海岸。不在であり続けようとするこのふたつを、なんとか妻有に存在させることができないか。それがそもそものコンセプトだった。妻有に参加する多くのアーティストが利用する古民家や特異な自然環境とは異なり、築30年程度の空き家を借りた。古民家というよりはただの空家だ。プロジェクトに関して記しておきたいことは山ほどあるが、ここはそのための場所ではない。越後妻有に触れたのは、それまでオフ・トリエンナーレで自身もそれに腐心し、また作品を目にするときにも、そう努力しているかどうかをひとつの判断基準としてきた、特殊な環境やそこに住む人々、地域文化とどれだけ有意味な接点を手にしているかどうかということを、あえて問い直し、そして手放したことと関係している。
場所は一気にイタリアの北部、トレンティーノ・アルトアディージェに飛ぶ。種々の言語、文化が入り混じるその地で、2008年、ヨーロッパの都市を渡り歩く国際展<マニフェスタ>*3が開催された。越後妻有ほど広く細かく散在しているということはないが、それでもかなりの広範囲に会場は分散していた。印象的だったのは、ヨーロッパの北と南を結ぶ幹線沿いとはいえ、越後妻有に相当する山間部で開催されたにもかかわらず、越後妻有のような、地域との緊密なコラボレーションを誇示する類の作品が少なかったということだ。ライナー・ガナールの学生の親戚が所有する古民家でのプロジェクトは、少し踏み込んだ性格のものだったが、そこでもアーティストの何人かは、その地での自身の役立たなさや、無理解、都会の文化へのメランコリックな追憶を、躊躇なくさらけ出そうとしていた。そうした性格のものは、越後妻有では目にすることができないものだ。その地の文化と添い寝しようとする身振りとのあまりのコントラスト。当初、<マニフェスタ>のアーティストの態度はある種の怠慢のように思われた。
次回の<ドクメンタ>*4はアーティストがキュレーションするべきではないか? コスタ・リカのキュレーター、イェンス・ホフマンがこんな質問を投げかけた。これに答えたアーティストの一人に、2009年の<ヴェネッチア・ビエンナーレ>で、ひときわ異彩を放っていた北欧館のコミッショナー、エルムグリーン&ドラッグセットがいた。彼らは直接それに答えることなく、以下のように提案した。<ドクメンタ>はヴェネッチアで開かれればいいし、<ヴェネッチア・ビエンナーレ>*5はクワンジュに場所を移すべきだ、......。確かに、<ドクメンタ>を見ながら、ヴェネッチアの食事やワインを楽しむことができれば申し分ない。もちろん、彼らはそのようなことを言いたいわけではない。彼らの主張を曲解すれば、ある場所で開かれる展示が知らず知らずのうちに育んでしまう枠組みをリセットしてはどうかということだろう。単にディレクタの首を挿げ替えること以上に、彼らの提案は根本的な問題を指摘している。そしてもちろん、これは汎用性のある提案でもある。僕たちはそれをもっと応用してみるべきなのだ。そうつまり、<越後妻有アートトリエンナーレ>は東京で開かれるべきだし、<横浜トリエンナーレ>*6は越後妻有で開かれればいい、......。エルムグリーン&ドラッグセットの皮肉な倒置が示唆するものは決して軽くない。
越後妻有・浦田地区にある「批評家の海岸」会場の古民家
越後妻有の出展作家たちの多くは都市部で生活している。そんな彼らが一時期、ある地域とかかわりを持ち、その地に対する理解を示そうとする。はたして、こうした姿勢に問題はないのだろうか。無批判にある特定のスタイルに追従し、そこでの正当性を身にまとってしまうことと比較すれば、7回目の<マニフェスタ>でライナーの学生たちが露呈した、無用性、無理解、都会への未練などの方が、むしろ真摯なものに思えてくる。あるいは立場を変えて、地域のアイデンティティ確保という倫理観が重く垂れ込めた地域で、メディアに氾濫する表層的な文化に憧れを抱く子供たちの立場を想像してみてはどうだろうか。彼や彼女は、肩身の狭い思いをしながら自身の内奥のものを圧し殺し続けなくてはならないのだろうか。妻有の田舎道を、今風の髪型と服装で、少し悪びれた様子で歩く、そうどこにでもいるような高校生には共感を覚える必要はないのだろうか。こうしたことを考えるだけで、軽薄であろうが欲望のままにそこに耽溺する姿をさらすことの方が意味のあることに思えてくる。そのとき子供たちは、自身が抱いている憧れの意味をもう一度静かに問い直してみるはずだ。もちろん、彼らが再び歩み始める方向はわからない。けれども少なくともそのとき、特定の倫理観の圧制からは逃れ出ていることになるのではないだろうか。
8/8に「アジアについて」をテーマに行われた第1回ディスカッションの様子
右より杉田敦、Hu Fang (Vitamin Creative Space, アーティスティック・ディレクター)、 遠藤水城 (ARCUS, ディレクター)、Kim Hyun Jin (インディペンデント・キュレーター)
自身の正当性を主張するよりも、自身の日常を曝け出すことの方が勇気がいるのは言うまでもない。これは言説に関しても言えることだ。越後妻有を巡って繰り返される、里山、豪雪、僻地、地震、......。もちろん、それらの要素が妻有の人々にとって重要で、切実で、そして忘れ得ないものであるのは言うまでもない。けれども、都会で暮らし、ほとんどそれらのことを想起することもない人間たちが、いたずらに寄り添ってみせることが意味のあることなのだろうか? もしも都会に住む人間にできることがあるとすれば、それらの要素に対する無理解や誤解、忘却や無視こそを曝け出すことではないのか。もちろんそれに加えて、自身が自身の環境で腐心し、専心していることを付け加えることも忘れてはならない。われわれが日ごろ心を砕いている物事は、果たしてそれだけの価値のあるものなのか。心配することはない、それほどの時間を必要とすることなく、その判断は下される。こうしたリスクのある場所にたたずむことこそが、今日、言説に対して強く求められるパフォーマティヴな立ち位置の取り方だといえるだろう。
「批評家の海岸」の会場で流れるオブリスト等の映像は、《oral critic archive》と名づけられたプロジェクトのために撮影されたものだが、そのダイジェスト映像を妻有で展示する意味もここにある。彼らの発言もまた、妻有の容赦のない、けれども美しい、自然、人々、そしてその文化に練磨されることになる。あるいはその湿度、そして昆虫たち、......。その結果それが、有意味なものであり続けることができるかどうかは誰にもわからない。しかし、そのような場所こそが重要なのだ。またそこで毎週末に催される討議にも、見た目の快適さとは裏腹に、残酷な意図が秘められている。そこでの言説は、映像の場合よりもさらに、発言者たちを鋭利な崖っぷちにたたずませることになる。こうした問題は、越後妻有という成功している国際展だからこそ顕在化されたものであることを忘れてはならない。顕在化された問題に目をつぶらないこと。だからこそ僕たちは、展示会場で繰り返される「難しいね」という反応にマゾヒスティックに耐え続けようとしている。もちろん、それが後悔の念だけに終わることもありえないことではない。また、この問題が越後妻有固有の問題でないことも忘れてはならない。日本各地に散見されるアートによる地域振興、活性化プロジェクト、町おこし等々において、アートは有効なキーワードなのかもしれない。けれどもそれこそが目的であれば、文字通りの地域振興や地域活性化をすればよいはずで、奇妙な倫理観を抱いたまま無批判にそこにたたずみ続けることはアートの為すべきことではない。ようやく、湿度と昆虫たちのなかで綴ってきた本稿も目的地に辿り着こうとしている。雨はいつのまにかあがっている。けれども、西側の山並みはすでに次の雨雲に包まれ始めている。ふと手を伸ばした足首には、新しく虫に刺された痕があり、PCのタッチパッドには、小さな黒い羽虫が這っている。ここに綴ってきた事柄が、これらの出来事に耐え抜くものであることを祈っている。
*1. 越後妻有アートトリエンナーレ:越後妻有地域(新潟県十日町市・津南町)の里山を舞台に3年に1度開催される国際芸術祭「大地の芸術祭」。地域に内在するさまざまな価値をアートを媒介として掘り起こし、その魅力を高め、世界に発信し、地域再生の道筋を築いていくことを目指している。現在2009年9月13日(日)まで開催中。 http://www.echigo-tsumari.jp
*2. 批評家の海岸:越後妻有アートトリエンナーレの参加プログラムのひとつとして、批評家・評論家・キュレーターの発言を集めた映像「ディクショナリ」を常設展示。また、展示のほか、国内外の評論家、キュレータ、アーティストと共に広範に世界やアートについてディスカッションを行う。杉田氏とart & river bankが企画。http://www.joshibi.net/outreach/critics_coast/
*3. マニフェスタ:2年に一度開催されるヨーロッパの現代アートの国際展。ヨーロッパの各都市を巡回。
http://www.manifesta.org [英語]
*4. ドクメンタ:ドイツ中央部の工業都市カッセルで、4−5年ごとに開催。現代美術の先端をあるテーマのもとに世界中から集めて紹介するという方針で、美術界の動向に与える影響力が大きく、世界の数ある美術展の中でも「ヴェネツィア・ビエンナーレ」に匹敵する重要な展覧会の一つ。作家選出からすべてを一任された一人のディレクターがテーマを選定、作品に取り組む世界最大規模の現代美術の国際展。http://www.documenta.de [英語]
*5. ヴェネッチア・ビエンナーレ:イタリアのヴェネツィアで1895年から開催。参加各国は事前にそれぞれの国のコミッショナー(展示企画者)と代表アーティストを選出し、紹介する現代美術の国際展。その中より毎回、優秀賞(金獅子賞)が与えられ、国同士が威信をかけて展示を行うことから、美術のオリンピックとも呼ばれる。http://www.labiennale.org [英語]
*6. 横浜トリエンナーレ:横浜市で3年ごとに開催される現代美術の国際展。2001年からスタート。
http://www.yokohamatriennale.jp