拡大し、拡散し、撹乱する「かわいい」


北村 文(明治学院大学教養教育センター専任講師)

東京は、かわいい。

カワイイ、と記すべきだったかもしれない。今や国際社会において日本を象徴するのは、フジヤマでもゲイシャでもなく、歌舞伎でも能でもなく、ましてやトヨタでもソニーでもなく、ポケモンでありセーラームーンでありハローキティだ。奇妙きてれつな異境でも、わびさびの文化でも、勤勉で狡猾な経済大国でもなく、カワイイ日本のイメージがそこにはある。

加えて、日本の女性がカワイイ。独自に制服をアレンジする女子中高生や、これでもかというくらいに個性的なストリート・ファッショニスタたちが、海外メディアの注目を浴びるようになって久しい。渋谷や原宿だけではない、丸の内に行けばOLがいて、歌舞伎町にはキャバ嬢がいて、秋葉原にはメイドがいて、さらに下町には下町の、郊外には郊外の、それぞれの職業ごと、街ごと、沿線ごとに細分化された「カワイイ」がある。

「カワイイ」には、だから、好奇の視線がやむことなく注がれてきた。いわく、21世紀にしてなお良妻賢母イデオロギーを手放そうとしない父権的な日本において、女の子たちは、実社会にからめとられてしまう前のつかの間、少女期に特権的な自由を「カワイイ」によって謳歌し、さらにそれをぎりぎりまで延長しようとしている。社会が押しつけてくる「女らしさ」というものの負荷から逃避するためにパステルカラーの世界に閉じこもる者もいれば、それに抵抗するために髪を脱色したり日焼けしたりピアスを連打したり、ヘン顔でプリクラに収まる者もいる。
カワイイ大使

カワイイ♥♥大使


同時に日本のなかでも、「かわいい」についての議論が熱い。それは時に、女が身につけさせられてしまった生存のための媚態であると言われ、またある時には少女たちが相互承認しあうための現代的儀式であると言われる。不完全や未成熟に美を見いだす日本文化にその源があり、今やその美学はグローバル化を果たしたとも言われるいっぽうで、モードとしての「かわいい」はもはや飽和状態にあり、資本主義の手垢にまみれたそれに日本の女の子たちは背を向け始めたとの声もある。実際、NHKが『東京カワイイ★TV』*1を放映し、外務省が「カワイイ♥♥大使」*2を任命し、このところの「かわいい」には国民国家の影さえちらついてきな臭い。

「カワイイ」も、「かわいい」も、エニグマに変わりはない。大人たちは、その背後にある文化的価値とか社会経済状況とか少女たちの深層心理とかを析出し、この混沌を理解しようとし、さらにはそのパワーをとりこもうとして躍起になる。しかしそうした視線に、女の子たち自身はどう応えるだろう。なに、うちら逃避してんの、これ抵抗なの、うそやばくない、ってか意味わかんない、媚びてるとか言われてるし、なにこの「♥♥」とかないよね、あははは、と大笑いし、そしてきっとこう言うだろう――だってかわいいんだもん/かわいくないんだもん。大人たちがいくらわかりやすいことばに分解し制御しようとしても、「かわいい」は拡大し、拡散するいっぽうだ。

デコ爪

東京はかわいい、そして、にぎわしい。

どの街でもいい、ひとたび歩けばその騒音にめまいを起こしそうになるのが東京だ。車や電車や人や大型スクリーンや拡声器が発する、物理的な音だけを私たちは聞いているのではない。人という人、モノというモノが、その意味とか価値とかアイデンティティとかを叫んでいて、いっせいに浴びせかけてくるのだから静かなわけがない。

そしてその都会的ノイズのひとつに、女の子たちを数えないわけにはいかないだろう。髪を巻き清楚なワンピースをまといシンメトリーな笑顔の女の子も、アシンメトリーの髪型で、これまたアシンメトリーな服装の、醒めたまなざしの女の子たちも、盛り髪にデカ目で爪も持ち物もデコった女の子たちも、色という色を身につけた、あるいは黒ずくめや白ずくめの女の子たちも、それぞれに、いっせいに、「かわいい!」を連呼する。

数かずの「かわいい」を目の当たりにして、それを無視して歩を進める者もいれば、ふわゆるに胸を射抜かれる者もあるだろうし、またある者は極小のスカートやパンツに度肝を抜かれ、そこからにょきにょきと伸びる黒いレギンスの脚に、そのつっこまれた奇妙な靴に、首を傾げるだろう。昨日接待してくれたキャバ嬢と似たいでたちの子が電車で教科書を広げていたり、あるいはただいまと家に帰ってきたりして当惑する者もあるだろう。「かわいい」は少女たちの世界だけで起きているのではなく、職場で、家庭で、街頭で、異性や同性の他者を巻きこむ。それを避けて生きていくには、東京はかわいいに浸食されすぎている。

彼女らはふわふわくすくすと夢見がちに、あるいはわあわあぎゃあぎゃあとかしましく私たちとすれ違い、そのたびに理解と解釈を迫ってくる。それはつまり、彼女らが彼女らの日常を生きるとき、期せずして発してしまうメッセージがあり、他者とのあいだに生じてしまうコミュニケイションがあるということだ。そしてそれは意図されていないがために散漫で偶発的で、複雑で両義的なものとならざるをえない。

東京を生きる私たちの誰もが、理解しやすい「かわいい」と、解釈に困難をきたす「かわいい」の両方を目撃したことがあるだろう。この、女の子たちが発明したとされる――実は、当然、生産や流通にかかわる産業やメディアの影響を無視することはできないのだが――記号は、それ独自で存在するわけではなく、他の記号との関連においてこの社会の象徴体系のなかに埋めこまれている。「優しい」とか「柔らかい」とかの隣に位置する「かわいい」ならばすとんと入り共感を得やすいだろうけれど、「醒めてる」とか「性的」とか「うるさい」とかいうところでは、意味不明で、マトリックスを乱すことにもなる。「かわいい」は、コミュニケイションと同時にミスコミュニケイションをも生起させ、意味をなすことで社会に受容されもすれば、意味をなさないことによって定められた価値や意味を揺らがしもする。

と同時に、意味をなしすぎることで意味をなさないということもある。キティラーの部屋とか全身ピンクハウスの親子連れとかいう偏執狂的な事例は言うまでもなく、みんなエビちゃんみたいな合コン帰りのグループとか、どれを見てもみんな同じに見える女子高生のプリクラとか、キャバ嬢やアゲ嬢たちの華美な装いとかが、かわいいはずなのにかわいく見えないことも私たちは知っている。過剰な「かわいい」は男を招くようで拒み、避けるようで手放しもしない。それもまた、伝統的な「女らしさ」と並べて安置できるものではない。

さらには女の子たちが「かわいい」からいちばん遠いもの――たとえば教師とか政治家とかいう権威や、気味悪くおぞましいとされている忌避の対象----にまでこの称号を与えるときにも、突然放り込まれた「かわいい」は既存の意味体系を脅かす。大人たちはそれを罰したり無視したりするかもしれないが、同時に、そのわけのわからなさに揺さぶられもするだろう。それで世界がひっくり返るわけでもなければ少女たちが「女」のくびきから解かれて自由に生きていかれるわけでもない。彼女らはそんなことを目指してもいなければ欲してもいないかもしれない。それでも起きてしまう、コミュニケイションの破綻としてのこの効果のことを、撹乱 subversionと呼ぼう。

かわいい女の子たちがいて、かわいくないはずなのにかわいい女の子たちがいて、かわいすぎるがためにかわいくない女の子たちがいる。彼女らの誰もが他者、特に男性の視線を意識しないわけにはいかないし、彼らへの依存をやすやすと断ち切れるわけでもない。しかし、逃避や抵抗など意図せずとも、社会が女性に与える場所のなかにあってなお、予期されない、耳障りなノイズを発し、見る者たちの心をざわつかせる彼女らはたくましい。「多幸症」とか「失語症」とか揶揄されながらも大声で繰り出す彼女らの「かわいい!」は、拡大と拡散と、そして撹乱を、続けていくだろう。

次回は遠藤水城さん(ARCUS Project ディレクター/ヨコハマ国際映像祭 キュレーター)です

*1: 東京カワイイ★TV
東京発の最新トレンドを紹介をテーマにNHKが2008年4月よりレギュラー放送している番組。番組では10代から20代の流行をつくりだすカリスマ店員や読者モデルといった東京のトレンドリーダーにスポットをあてて、彼女たちが次々に生み出す"カワイイ"ファッションやアイテム、カルチャーまで幅広く紹介している。

*2: カワイイ♥♥大使
正式名称、ポップカルチャー発信使。近年世界的に注目を集める日本のポップカルチャーを通じて、海外における日本文化の理解を深めることを目的に外務省が任命した広報大使。ロリータ系、原宿系、女子高生制服、とそれぞれのジャンルでファッションリーダーとして注目されている女性3名から成る。

[参考文献]

・Kinsella, Sharon. 1995. "Cuties in Japan." In Lise Skov & Brian Moeran eds. Women, Media and Consumption in Japan. Surrey: Curzon Press.
・古賀令子 2009 『「かわいい」の帝国:モードとメディアと女の子たち』青土社
・McVeigh, Brian J. 2000. Wearing Ideology: State, Schooling and Self-Presentation in Japan. Oxford: Berg.
・Miller, Laura. 2005. "Bad Girl Photography." In Laura Miller and Jan Bardsley eds. Bad Girls of Japan. New York: Palgrave.
・四方田犬彦 2006 『「かわいい」論』ちくま新書
  • ▲ページの先頭へ