「コンセプト」と「関係」をつなぐ。
遠藤 水城
■ はじめに
copyright : ARCUS Project
アーカス・プロジェクト*1 のディレクターという立場で、よく「地域とアート」というテーマで話したり、語りかけられたり、そういった会合に呼ばれたりすることがあります。しかし、どうもしっくりこないことが多い。誰も「アートの話」を期待していなくて、地域住民の参加の度合い、地域における盛り上がり、その経済効果などを話題にします。地域系アートプロジェクトの主催者側がやたらと自己肯定している光景を目にすることもあります。曰く、「市民がここまでやったのはすごい」「お祭みたいに盛り上がった」「外部から多くの来客があった」「子供たちがすごく喜んだ」「老人に笑顔が戻った」「誰でも親しみやすい内容だった」「雑誌や新聞で話題になった」などなど。どれ一つとっても、美しさや自由とは関係のない話です。アートという意味不明で捉えどころのないものを相手にしているはずなのに、なぜ凡庸な、誰にでもわかる良さに話が収斂するのでしょうか。
■ パブリックアート/地域系アートプロジェクト
街を歩いていると、往々にして無駄なパブリックアートに出くわします。彫刻公害という言葉もあるようです。とりわけ80-90年代の好況期にできた抽象幾何学彫刻に無駄度が高いものが多いです。「せっかくあんなにお金があった時代なのに、なんでこんなものにお金を使ったんだろう。」と僕は思います。おそらくいまの地域系アートプロジェクトは、経済的に正反対の状況にありながら、後に同じようなフレーズで回顧される気がします。「全然お金がない時代だったのに、なんであんなものにお金だしてたんだろう」という感じで。パブリックアートと地域系アートプロジェクトには共通したロジックがあります。都市空間にアート作品が飛び出すのは素晴らしい。地域にアートが飛び出すのは素晴らしい。街に彩りを与えるのは素晴らしい。地域に活力を呼び起こすのは素晴らしい。
この言い回しに抵抗するのは容易ではありません。作品/プロジェクトの善し悪しの話をすると、「エリート主義」「特権的」「このえせインテリめ!」という罵声を浴びてしまいます。
■ 地域でぼやく
「ホワイトキューブでやればいいじゃん!」「これ、古民家(廃校、工場、空き店舗、団地なども可)の雰囲気で騙されてるんじゃ...」「どうみても自然の方がきれいだ」「楽しい工作教室ってだけじゃね?」「そのままにしておいた方が良かったんじゃ...」「苦労していない人や幸せそうな人しか参加してないな」「なんか楽しさを押し付けられている気がする...」などなど、地域系アートプロジェクトに行くと、僕はぼやきまくりです。複合的な現実の深みや、自然そのものの美しさ、美術館の外にある時間というものに、アートがどのように対峙できるのか、という問題が逆説的に浮き彫りになっていると好意的に解釈しています。アートが社会に出るときに、「アートだからなんでも許される(非専門家は善し悪しが分からないし)」と傲慢に想定することも、「アートってこんなにわかりやすい」と毒にも薬にもならない作品/プロジェクトを礼賛することも、共に回避したい。はっきり言えるのは、せせこましいアートよりも、現実や自然の方が多様性と多義性と創造性に溢れているということです。それでもアートをやる、とはどういうことなのか。
■ コンセプチュアル・アート/リレーショナル・アート
僕は日本のアートシステムはコンセプチュアル・アートを導入しそこねたと感じています。これがリレーショナル・アートの導入の遅れ(おそらくはこれも失敗)に繋がっています。この二つの不幸は地続きのものです。つまり、コンセプチュアル・アートとリレーショナル・アートが提示している「非-物質性」というあたりまえの特徴が、美学的にも社会的にも咀嚼されていないのです。それによって、一方で「コンセプトのない」作品群が増殖し、視覚的インパクト中心主義/工芸的達成度中心主義/説明的コンテクスト中心主義への反省がなされなくなる。もう一方で、「関係性を喪失した」アートプロジェクトが増殖し、本当に深刻な経済の問題、コミュニケーションの問題、政治の問題などに対してアートが美学的にアプローチすることが困難になっている。モダニズムが退行に見えてしまうのも、その乗り越えとしてのコンセプチュアル・アート/リレーショナル・アートの非物質性ラインが明確ではないからです(僕はモダニズムの良さを限定的に認めます)。
■ アートセンターの欠如
パレ・ド・トーキョー
リレーショナル・アート、コミュニケーション・アート、参加型アート、プロジェクト型アートなどなど、呼び名は何でもいいのですが、これらは物質的基盤を持ちません。これが現在の美術館制度に適合していないという問題があります。つまり、収集保存、展示、交流(教育普及)という現行の美術館の学芸員さんの役割分担ではリレーショナル・アートは「交流」に属してしまうのです。それは「作品」とは考えられずに、広く一般性をもつべき「ワークショップ」や「イベント」と位置づけられざるを得ない。しかし、仮に物質性を持たなくとも、美学的に説明されるしかない「作品」があります。こういった作品は、本当は「美術館」ではなく、コレクションを持たず、空間も自由に使え、アウトリーチ活動もフットワーク軽くこなせる「アートセンター」において集中的に取り上げられるべきものです(実際『関係性の美学』*2の著者であるニコラ・ブリオーはパリにあるアートセンター「パレ・ド・トーキョー」*3の館長でした)。しかし、日本にはそのような求心力をもったアートセンターが存在していません。ニューヨークのPS1*4やベルリンのKW*5、ロンドンのホワイト・チャペル*6にあたるような、先進性と実験性を推進することで現在進行形のアートを社会に伝えていくアートセンターがないのです。(その反面、日本の最先端を標榜する現代美術館は、物質的かつ流通可能でスペクタクルな作品を展示し、それが欧米でも最先端であるという見せ方をしています。)
■ 間をつなぐ概念/関係性の構築
僕が本稿でいいたいのは、アートプロジェクト/リレーショナル・アートにも善し悪しがある、という当たり前のことです。その善し悪しは、「わかりやすさ」や「動員数」や「地域の活性化」や「埋もれた地域資源の再活用」や「子供や老人の笑顔」とは全く関係がありません。(同様に、コンセプチュアル・アートの善し悪しは、工芸的達成度、視覚的インパクト、テーマ性、流通可能性、展示の上手さなどと関係ありません。)
関係性の美学は、コンセプチュアル・アートから多くを受け継いでいます。互いに異なり矛盾する要素の間にあるからこその関係性の美学なのですが、それはコスース*7による言葉と物とイメージの「間」を示した諸作品の直系にあたります。コンセプチュアル・アートとリレーショナル・アートの間には、言語学から社会学への展開があり、意味から権力への重心の移動があると言うことができます。「見ること」と「言葉」の問題から、「共有すること」と「コミュニケーション」の問題への移動と言ってもいい。あるいは静態的な定義およびその帰結としての固有名の限界という問題から、動態的な意味生成および世界把握の重層決定性への移行。いずれにせよ、コンセプチュアル・アートとリレーショナル・アートは共に非-物質的であり、相矛盾する要素の間にしか措定されざるを得ないという点を共有しますが、その批判の射程が異なっているのです。
僕はコンセプチュアル・アート最高!リレーショナル・アート推進!と言いたい訳ではありません。そこまで大好きでもないです。ただ、これらが機能しないことには、現代美術から批判機能がそこなわれてしまう。美術館の公共性が損なわれてしまう。地域における公共圏の成立が不可能になってしまう。と思うのです。
■ コミュニケーションを問題化する
246表現者会議 photo: 武盾一郎
川俣正*8の仕事ってすごくないですか?そのすごさは、その「間」っぷりにあると思うんです。どっちやねん!なにがしたいねん!という。彼の諸作品/プロジェクトは、美術と建築、造形性と非造形性、作家性と無名性、物質と行為、有用性と無用性、スペクタクルと非スペクタクルの間にあって、それ自体が独自のコミュニケーションの系を形成している。一つの作品と一人の鑑賞者の間にもある特別なコミュニケーションは成立します(それは社会的利害関係や既存の意味連関から自由である点において素晴らしいものです)。しかし、アートが社会に出るとは、そのような美術館的閉鎖的内省的コミュニケーションに代わるコミュニケーションの形態を編み出しながら作品を表に出す、ということであって、ただ作品やプロジェクトが美術館を飛び出せばいいということではない。
リレーショナル・アートは、ある種のコミュニケーションの形態を創造する芸術のことです。それによって、消費的コミュニケーション、地域共同体的コミュニケーション、慣用的コミュニケーション、同一階級内コミュニケーション、日本的コミュニケーションなどを異化し、別の公共圏の構想が、美術館の外でも可能になるようなものです。この点において、「ニコニコ動画」*9や「素人の乱」*10、「246表現者会議」*11、「ココルーム」*12、「ART LAB OVA」*13は圧倒的にアートに先行していると僕は思います。
■ コンセプチュアルかつリレーショナルであること
「川俣正[通路]」の展示空間内に作られた通路カフェ
写真提供:東京都現代美術館
まとめます。コンセプトとは決して、鑑賞/消費しやすくするためのアイデアではありません。奇抜な発想がコンセプチュアルなわけでもありません。相反する複合的な要素を同時に孕んでいる、懐胎しているにも関わらず、その全体に輪郭が認められる状態がコンセプチュアルです。リレーショナル・アートの意義は、独自のルールや方法論の構築を通して、単一で円滑で透明なコミュニケーションの背後にある権力構造を明確化すると同時に別のコミュニケーションのあり方を示唆することにあります。異なる権力が衝突する状態や、異質な他者が出会う場を意図的に作り出し、コミュニケーションそのものを問題化することが肝要です。
「記号的な視覚価値」と「お金」と「人々の心」を、つるつると回転させることに恥辱を感じなければなりません。「わかりやすさ」と「参加しやすさ」を等号で結ぶことを止めなければなりません。ローカルでマイナーなものの操作不可能性を操作可能にするとうそぶくアート的論理は、浅はかだと言わなければなりません。美術館の外では、アートはもはやアートに見えないかもしれないし、アーティストもアーティストではあり得ないということを覚悟しなければなりません。複雑なものを生み出して、複雑なことを共有して、複雑な人とわかりあって、複雑であることを愛するために、アートそのものを現実と自然に投げ返して、そこからもう一度、現実と自然をみんなで作り直さなければなりません。その技術をアートにしなければなりません。先は長く暗いけれど、まあお互いがんばろう。
次回は加治屋 健司さん(広島市立大学芸術学部准教授)です
*1: アーカス・プロジェクト
茨城県が主催する現代美術事業の一つとして守谷市にある元小学校を拠点に、美術館とは異なる公的なアート・センター、また地域住民のための文化の場づくりを目指し1995年からスタート。初年度から実施しているアーティスト・イン・レジデンス・プログラムは当時日本では先駆けだった。2007年より、遠藤氏がディレクターを務める。
http://www.arcus-project.com
*2: 『関係性の美学』(Relational Aesthetics)
1990年代に活発になった参加型の作品を理論化して美術の枠組みに位置づけたニコラ・ブリオーによる著書。表現上のスタイルよりも、作品が作り出される目的やコンテクストを重視するリレーショナル・アートという概念を提示した。
*3: パレ・ド・トーキョー(Palais de Tokyo)
2002年にフランス、パリに開館した美術館。当時「東京通り」(Avenue de Tokio)と呼ばれた通りに面して立ったことからパレ・ド・トーキョーと呼ばれる。現代美術、コンテンポラリー・アートを中心に、複数の展示室で様々な展覧会を開催している。現在は12時から24時まで開館し、年に20万人以上の観客を集め、パリおよびヨーロッパの先端的な美術の中心となっている。2006年までニコラ・ブリオーが共同キュレーターを務めていた。
http://www.palaisdetokyo.com
*4: P.S.1
現代美術を扱う非営利アートセンターとしてアメリカで最も古い施設の一つ。1971年、ニューヨーク、ロングアイランドに設立。名前は建物が以前パブリックスクールだったことに由来しており、その校舎を改装しギャラリースペースとして運営している。2000年には、ニューヨーク近代美術館(MoMA)と提携、ともに企画展を開催している。
http://ps1.org
*5: クンスト・ヴェルケ現代美術館(KW Institute for Contemporary Art in Berlin)
ドイツ、ベルリンにある施設。コレクションは保有しないが、ラボラトリーとして、ドイツをはじめ海外の現代の文化的発展を目的に展覧会、ワークショップ、アーティスト・イン・レジデンス事業の他、アーティストや他機関とのコラボレーションや、委託事業を積極的に行っている。1996年からベルリン・ビエンナーレを主催、来年2010年には6度目を迎える。
http://www.kw-berlin.de
*6: ホワイト・チャペル・ギャラリー(whitechapel gallery)
1901年、国内外を問わず同時代の美術を広く一般に紹介するために英国文化庁が創設した元公営ギャラリー。現在はアート・カウンシルから資金提供を受けつつ独立し、研究性の高い個展や、独自の視点をもった企画展で注目を集める。周辺の作家アトリエやギャラリーと共同で無名の現代美術作家を多数紹介する「ホワイトチャペル・オープン」を例年開催している。
http://www.whitechapelgallery.org
*7: ジョセフ・コスース
アメリカのコンセプチュアル・アーティスト。美術に加え、人類学、哲学を学ぶ。実際の椅子と、その椅子を撮影した写真を実物大に拡大した複製と、椅子についての辞書からのテキストを並列して展示した《1つと3つの椅子》(1965)は、コンセプチュアル・アートの起源とも言われている。
*8: 川俣正
芸術家。1953年北海道生まれ。「ワーク・イン・プログレス」と呼ぶスタイルで、現地で制作を行う。2005年、2度目の横浜トリエンナーレ総合ディレクター。2008年には東京都現代美術館にて、約1,000枚ものベニヤ板を使って美術館を通路に見立てるプロジェクトを延べ1,600名のボランティアとともに行った。
*9: ニコニコ動画
動画の時間軸に対してコメントを投稿し表示できる機能を特長とした動画配信関連サービス。その他にも、ユーザーや動画アップロード者同士が交流できるコミュニティ機能も備える。
*10: 素人の乱
高円寺で古着屋を営みながら様々なイベントを企画する。インターネットラジオとリサイクルショップと古着屋と呑み屋と定食屋と多目的利用スペース雑貨店などを運営している。店舗は、都内の高円寺、阿佐ヶ谷の他、大阪と京都にも構える。
http://trio4.nobody.jp/keita/
*11: 246表現者会議
渋谷駅の東口と南口を結ぶ国道246号線沿いの渋谷駅高架下通路にはホームレスの人たちが生活の場としていた。地元の「渋谷桜丘周辺地区まちづくり協議会」は、「渋谷アートギャラリー246」として、学生らによる全長40mに渡る壁画を完成させた。当時、壁画制作の時はホームレスの人たちは自主的に一時退去していたものの、完成後には「移動のお願い」が張り出され、立ち退きを強いられることになる。これについて、アートの名目で「追い出し」を行ったことに対し、そもそもアートとは何かという疑問から発足した。
http://kaigi246.exblog.jp
*12: ココルーム
NPO法人こえとことばとこころの部屋。アートを余暇としての活動ではなく、社会参加としての活動と捉え、子どもたちや障害を持つ人たちとのワークショップや、アートによる包摂型就労支援ネットワーク事業などを行い、多様な生き方、多様な人達が存在する社会をつないでゆくツールとして機能する取り組みを行っている。2008年に大阪フェスティバルゲートの閉鎖に伴い移転、隣接する西成地区にインフォショップを構える。
http://www.cocoroom.org
*13: ART LAB OVA
1996年、アーティスト・ランの非営利団体として横浜に設立。2001年、アトリエや音楽スタジオ、ギャラリー、ライブラリーのほか、カフェ、パーティー、手芸クラブ、勉強会など、その時々に応じた様々なメニューを用意した多目的なアートスペース『13坪のアートセンター』を開設。映画館やスナック、商店街、動物園、学校、福祉施設など、まちの狭間で「場」や「出来事」を通じて「関わり」を探るアートプロジェクトとして活動を展開している。http://artlabova.org/