「距離」に文化の息づきを聴く。


巻上 公一

高橋悠治とシルヴィー・コルバジェ - 湯河原現代音楽フェスティバル
日本・中国・スイスの個性派音楽家が、バッハから現代音楽からエレクトロニクスまで、 現代を映す曲、うた、インプロヴィゼーション音楽を演奏。


東京まで約100キロ。湯河原という温泉町に育ったので、東京は遠いような近いような微妙な距離にある。最近、スペインのカセレス、オーストリアのヴェルスなど首都から離れた町の音楽フェスティバルに続けて参加して、その距離と文化との関係に思いをはせていた。昨年からプロデュースをしている調布市の仙川のJAZZ ARTせんがわや、湯河原現代音楽フェスティバル。地元よりも周辺からの関心を強く感じている。人々はちょいと近所より、電車やクルマで、少し遠出をして何かを感じたいのかもしれない。

湯河原から東京。これはなかなかの距離だ。東海道本線で一本、2時間弱、乗り換えなく行けるのだが、出かけるには決心のいる距離でもある。で、簡単に東京と言ってみたが、その範囲は広く、自分が関わってきたのは、ほんの一部の東京である。なかでもぼくは渋谷とは縁が深い。

状況劇場「二都物語」のワンシーン。
『唐組―状況劇場全記録』パルコ出版より 撮影:御子柴滋


はじめての東京遠征は、1972年。高校一年生の時、唐十郎率いる状況劇場「二都物語」を上野不忍池に観に行った時だ。唐十郎が冒頭出てきて、いきなり不忍池に飛び込んではじまり、机を背負った大久保鷹が遠くから泳いできたのには度肝を抜かれた。アングラ初体験である。いいなぁ東京。こんなことが日々行われているのは素晴らしいと思ったのだ。ぴあもインターネットもなく、当時どうやってその情報を手に入れたのか記憶にないのだが、美術手帖か新劇という雑誌で知ったのか。

その春はさらに、東京キッドブラザースの「西遊記」というロックミュージカルを四谷公会堂に観に行った。小田原から新宿まで小田急で行ったのだが、会場に早く着きすぎた。
「チケット買いたいんですが・・」
「あら、まだ早いわよ。中に入って手伝う?」
開演前の場内整理は新鮮だった。それが縁で、高校生の分際で、毎回東京キッドブラザースの活動を手伝いに東京に行くようになった。高校三年生の時には、オーディションを受け、劇団員になった。

その頃は渋谷青葉台の小さな四畳半を借りていて、稽古場の代々木青少年センターに歩いて通っていた。当時の渋谷はかなり健全な町で、百軒店にロック喫茶B.Y.Gがあるくらいで、夜8時ともなれば閑散としていた。ご存知かも知れないが、渋谷は東京から独立しようとしていたくらいで、東京とは違うという意識がかなりあったようだ。渋谷といえば、ちょうどパルコが渋谷にできて、文化戦略がはじまろうとしていた時でもある。西武劇場(現パルコ劇場)があり、内田裕也の「ロックンロール馬鹿」なるイベントに劇団で出演したことがある。ほかにもプルチネラという小さなスペースがあって、内田栄一作のアングラ芝居を観たのも覚えている。そこにはまだ有名ではなかった松田優作が出ていた。

当時のナイロン100パーセントの様子
撮影:中村直也/『NYLON100%』(アスペクト刊)より


それから4年後の1978年、ぼくは練馬に住んでいたのだけど、渋谷のナイロン100パーセントというセンター街の奥にある小さな店によく通った。ここには、ロンドン、ニューヨーク、東京のニューウェイヴシーンの情報が集まっていた。まだはじめたばかりだったヒカシューのカセットテープをかけてくれたり、「マラソンインプロヴィゼーション」という1ヶ月にわたるイベントも開催した。実は、高円寺を中心とする中央線周辺には、その頃から、いやそれ以前から若者中心の文化基地のようなものがあったが、ぼくはどうもそこを避けていたようだ。だからわざわざ渋谷に来ていたのかもしれない。

80年代に入って、渋谷の鉢山町に引っ越したが、不思議なもので、渋谷に越してから、ナイロン100パーセントにはあまりいかなくなった。この頃、桑原茂一が企画したピテカントロプスが原宿の明治通沿いにできて、プラスティクスから発展したメロンというバンドのコンサートなど、お洒落に満ちたカフェバーなるものがはじまった。それはバブルに向かう前奏曲で、六本木にはインクスティックができ、その後、湾岸地域の再開発へと移動していく。佐賀町や上田ギャラリーなど、美術系のスペースも中心から外れた位置にオープンして、音楽イベントを頻繁に行っていた。どこも電車では不便なところにあって、クルマでブイーンと夜中にでかけるような所にあった。そういう東京のカルチャーストーリーを誰かが仕掛けていたのだろう。

80年代、パルコ西武系の劇場は活気があった。池袋には西武デパートの8階にスタジオ200というスペースがあり、先端的な音楽やダンスを支援していたし、渋谷のパルコ劇場はほんとうに元気だった。ポーランドのタデウシュ・カントールやニューヨークのメレディス・モンクから幻想人形劇のフィリップ・ジャンティ、武満徹のミュージック・トゥデイという現代音楽祭に至るまで、刺激に満ちたプログラムに日々魅了された。パルコに行く途中には、ジャンジャンという伝説的な芝居小屋があり、イヨネスコの「授業」の定期公演や、津軽三味線を芸術に高めた高橋竹前の公演をレギュラーにしていた。

この動きに東急デパートが刺激されて1989年に文化村ができたが、パルコの先進性には到底及ばないのは、渋谷はすでに中心になっていて、「距離」という周辺性を既に欠いていたからだろう。また、串田和美率いる自由劇場による「上海バンスキング」という音楽劇のロングランからはじまったのも象徴的だ。以後、新保守主義的ステージを次々に生んでいく。野田秀樹やケラリーノ・サンドロヴィッチといった芸能界的エンターテイメントが中心のプログラム作りであった。

JAZZ ART せんがわの期間中ほか、神出鬼没のライブハウスとして、仙川周辺に出現したCLUB JAZZ 屏風。 中に入るれるのは3人程。「親密」な至近距離で音楽を楽しむ空間。


またこの頃から、ふるさと創生一億円事業なるもののせいで、地方に不必要なハコがたくさんできてきた。呼べもしないのにオペラハウスをつくったり、エゴイスティックな建築家にろくでもない劇場をつくらせてしまうという事態がおこっていった。 1990年初頭に、湾岸地区にアートスフィアという劇場ができて、イメージの演劇の先端だったロバート・ウィルソンの「浜辺のアインシュタイン」を上演した。日本の演劇が笑いを全面に押し出し、「楽しいお遊戯」のようになっていく時期だったので、その先鋭的なプログラムに期待したが、これはバブル景気の副産物だったらしく、日本発の作品に繋がらなかったようだ。

東京の周辺の横浜やさいたまで、脱構築的アプローチのフランクフルトバレエやタンツテアトロなるピナ・バウシュが上演され、水戸、さらに静岡の劇場はSCOTの演出家、鈴木忠が剛腕にロシアのタガンカ劇場などを招聘。その後の文化交流の発進的役割を担うが、波及力はあまりなかったのはなぜだろう。

確かに東京から距離のある街は、他所から集めたもので一瞬光り輝く。東京もしかり。世界と通底することで、文化は移動によって生命を確認するかのように息をする。「距離」は期待を創造する装置だ。だから、仮想空間が巨大化した現在、どこでも文化の種子を発芽させられるのだと思う。

次回は 大野秀敏さん(東京大学大学院教授)です

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